ヨーロッパの美術館巡りをしているとき、自分には教養が足りていないなあと痛感したことがあった。古典絵画や彫刻などは、各国の宗教や歴史、文化背景をよく知らないと、作品の内容を読み取ることが難しいからだ。絵画鑑賞には高い知識はなく高い教養が必要なのだと常々感じる。
博識の人のことを教養のある人と勘違いしている人が多いが思い違いだ。辞典によると、教養とは人間の精神を豊かにし、高等円満な人格を養い育てていく努力、およびその成果をさす(ヤフー百科辞典)とある。ただの博識はオタクであって教養のある人間ではないということだ。
その教養も国が変わると教養の養い方が随分異なるらしい。今月号の COURRIER JAPON で教養特集をしているが、これが面白い。ラジオで紹介されていて面白そうなのでつい購入してしまった。
その雑誌の中では、フランスでは教養といえば哲学を指すことだと紹介している。学校の勉強でも長い間哲学の勉強をして、自分自身の見解を述べるトレーニングをするらしいが、僕も子どもの頃から学校で、こういう授業を受けてもっと自分の論理を確立させておきたかったなあと、この記事を読むと思ったりする。僕は議論が好きなのできっと授業は楽しいだろうなあと思う。
外国に行くと、自分の意見が言えない人って本当に相手にされないからなあ。なんだかこの雑誌を読んでみると、グローバル化だと言って、語学だとか表向きの事ばかりが取り上げられるが、もっとも重要視するべきは、自分の考えていることを日本語で相手にきちんと伝えられる能力を磨くべきだなあと改めて考えさせられた。教養って机上の勉強で身に付くように思うけれど、日々どれだけ物事に関心を持って生きてきたのかのバロメータのようなものかもしれない。僕ももっと幅広く関心を持って生活して行かなくてはいけないなあと、自分の幅の狭さを改めて思う事になった。