新聞のコラムで、「残暑見舞いというものがこなくなって残念です。」というものを見た。
メールが全盛になってハガキというものでのコミュニケーションが希薄になってるが我が家には結構ハガキというものがやってくる。
夏の終わりのこの時期に、不意に2通の美しい手書きのお手紙が届いた。
どういう偶然か、その2通は隅々まで丁寧な気持ちが行き届いたお手紙で短い文章だったが、とても嬉しい。
美しい字というモノはいい。そんな字を書ける人は人生の宝物を持っているように思う。
一通は後輩から渡仏することへの気遣いの手紙。もう一通は恩師からのお手紙。
小学生のときに担任だった先生から頂いたお手紙には、丁寧な木版画と印刷かと思うほどの美しい字が書かれていた。先生が一人一人に丁寧に書いてくれた通信簿を思い出です。隅々まで行き届いたその心配りは、手紙という手間暇をかけて送って来てくれたことの意味を感じさせる。
僕がもう20年以上前に先生に出した手紙には、「将来美術の先生になりたい」と書かれていたようだ。それからずっと音信不通だったが、この手紙には「本当に先生になってくれて嬉しい」と書かれていた。
先生という仕事は今に思うと本当に責任重大で、やればやるほどあんまり自分には
向いていないなあといつも思うのだが、高校生の僕は先生になることが夢だったようだ。
先生になりたいと思う人は、先生という仕事が向いている訳ではなくて、きっと先生という人を好きになれた人なんだと思う。
そういう意味では、きっと僕の人生は多くのいい先生にめぐりあうことが出来たのだろう。
この手紙はちょうど人生の折り返しに届けられた、遠い昔にしたためた未来の自分へのタイムカプセルのようになった。