人になにか贈り物をするのは難しい。贈る際にあまり説明しすぎても、あまり説明しなすぎても、受取る側がぴんと来ない場合があるからだ。受け取る際に、相手がどこまで思いを込めてそれを贈ってくれたかは、なかなか受け取る時にはピンとこない場合が多いのではなかろうか。失礼は承知の上で言うならば、特に男性は受けるとる際に、気恥ずかしくてついそっけなく受け取ってしまうのではないかと、自分も含めてそう思う。
まるで春の香りのような、甘美な香りの紅茶を飲みながら改めてそんなことを思うのは、このほっとするような香りのお茶は、僕の体を労わって贈っていただいたものだから。「声が出なくなったのは、きっとお休みがたりないのでしょう。このお菓子とお茶でお休みをとってください。本当に美味しいんですよ。」と、展覧会の時に手渡された。なにげなく受け取ってしまったが、それからすこし時間を経て、このお茶を口にした今、差し入れてくれた方の気持ちが、甘い香りを通じて伝わってきたように感じる。
さりげなく、また奥深いこころづかいは日本人にしかできない美しい「会話」の形なのだと思う。「心配りがさりげなくできる。」それは大人のなかなか出来そうで、出来ないたしなみの一つかもしれません。