詩画集のパートナーの秀格に「大矢雅章の文章は観念的だ」だという感想をもらった。
僕はこの観念的という言葉につらい思い出があるので、正直あまり良い印象はない。
もう20年近く時間が経ってしまったが、予備校でデッサンを描く時に「大矢雅章のデッサンは観念的だ」とよく叱られたものだ。叱られすぎて坊主にさせられたこともあるくらいだ。世の中はバブルだったのにひたすら大変だったなあ。
大体、今になってよく考えてみるとあんなレプリカに興味をもって描けという方が無理があるが当時はそれが全てだったのだ。ルーブル美術館で本物のラボルト像を見たときに、愕然としたものだ。
結局イメージデッサンの試験だけ合格したのは、観念的ということがあったのかもしれない。
書いても、描いても観念的らしい。
しかし文章を人に見せて意見を聞くと、本当に面白い反応がある。僕は今回の件で自分の長所と短所がはっきり浮き彫りになったような気がする。しかし短所を直すと、らしさというものがなくなってしまって、全然さっぱりしてしまって面白くないのだ。まあなかなか難しい課題だ。
観念的という言葉は僕にとってマイナスイメージだけなので、ちょっと調べてみたら、観念論として「哲学において、観念論とは、英語idealism、独語Idealismus、仏語Idéalisme、にあたるものである。この語は多義的であり、かつて日本では存在論については唯心論、認識論については観念論、倫理学説については理想主義と訳しわけられていた。しかし、現在多く使われるのは、存在論についてであるにもかかわらず、観念論と呼ばれており、物質よりも精神、理性、言葉に優位性を置く理論のことである。」とあった。(出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』)
物質よりも精神、理性、言葉に優位性を置く理論のことと言われれば全くその通りなので、なるほどなあと感心してしまう。じゃあまあ徹底的に観念的にいこうじゃないか。と、いうことに納得した1日だった。